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​Daigokumon

第一次大極殿院

大極門

​平城宮跡第一次大極殿院

        大極門(南門)の変遷

第一次大極殿院には、奈良時代から今日まで様々な変遷があります。

このページでは、大極門(南門)を中心に、第一次大極殿院の変遷について、簡単にご紹介したいと思います。

古代から現代まで、大まかには

①平城宮があった時代(奈良時代)

②田畑となった時代(平安時代中期~江戸時代前半)

③平城宮跡が発見された時代(江戸時代後半~現在)

に分けられます。

平城宮第一次大極殿という呼び方は、現在の呼び方ですが、奈良時代にも建物は建て替えられているので、その時期によって呼び方は変化したと考えられます。

(ちなみに、奈良時代の後半は第一次大極殿はなかったのです!)

​さて、まずは、第一次大極殿院の位置を確認しましょう。

​平城宮跡には、朱雀大路・朱雀門の真北にある第一次大極殿と、その東にある第二次大極殿、更に東に東方官衙や東院庭園と呼ばれる空間があったことが分かっています。なお、第一次大極殿院の西側は、低湿地が多くなっています。

平城宮跡図_奈文研の東院庭園のパンフレットから.tif

主に、奈良時代前半、恭仁遷都までは第一次大極殿院という建物がありました。大極殿は恭仁宮に移築されたと推定されています。

五年間で平城宮→恭仁宮→難波宮→紫香楽宮→平城宮と数度の遷都(下図)の後に、平城宮に還都した後を奈良時代後半としています。

転々とする都_奈文研の平城宮跡のパンフレットから.tif

還都後に建てられたのが、第二次大極殿です。第二次大極殿は第一次大極殿よりも東に建設され、第一次大極殿院の場所は西宮と呼ばれる別の建物が建てられました。

大極殿地区の変遷.png

第一次大極殿院は、奈良時代の前半(708~753)に大極殿院と呼ばれる、大極殿と大極殿を囲む一連の建物群(大極門・東楼・西楼・回廊)を指します。即位や朝賀など、主に儀式に用いられたとされます。(上図左の赤い部分)

 

ちなみに、大極殿院の南と、朱雀門の北の空間には中央区朝堂院と呼ばれる、実務のための空間も設置されていました。(上の図の左、奈良時代前半の大極殿地区の南に「朝堂院」とある部分。)朝堂院には基本的に壁はなく、風通しの良い空間だったと考えられています。

平城宮の存在した時期は、西暦で710~784年とされていますが、奈良文化財研究所では、発掘の成果から、「学報」と呼ばれる発掘調査報告書が、順次発行され続けており、成果が反映されています。

 

学報84(平城宮発掘調査報告17 第一次大極殿院地区の調査2本文編 2011発行)によると、古代の遺構をⅠ~Ⅲ期に区分しています。

Ⅰ・Ⅱ期は奈良時代、Ⅲ期は平安時代に当たります。Ⅰ期はさらに1~4期に分けられていて、それぞれの年代は、

•Ⅰ-1期(710~715、和銅3年3月~霊亀初年)

•Ⅰ-2期(715~740、霊亀年間~天平12年)

•Ⅰ-3期(740~745、天平12年~天平17年)

•Ⅰ-4期(745~753、天平17年5月~天平勝宝5年末頃)

•Ⅱ期(749頃~770、天平勝宝年間前後~宝亀初年)

•Ⅲ期前半(809~825、大同4年11月~天長2年11月)

•Ⅲ期後半(825~、天長2年11月以降)

となります。

​それぞれの時期で建てられていた建物は異なります。まとめて図示したのが下の図になります。

第一次大極殿院の変遷(坪井さん資料より).png

もう少し詳しく見ていきましょう。

Ⅰ-1期は、南門が建てられた時期です。西暦では710~715年、和暦では和銅3年3月~霊亀初年とされています。第一次大極殿院の造営期でもあり、第一次大極殿と南門、第一次大極殿院の周囲を一周する築地回廊が造営されました。

下の図の黒く塗られた部分が発掘された部分になります。

黄色の部分が南門です。

この時期から、第一次大極殿院の下部に南門が建てられていました。

南門の変遷Ⅰ-①~④期_ページ_1.jpg

Ⅰ-2期は、南門を含めた大極殿院が一番壮麗だった時期です。西暦では715~740、和暦では霊亀元年~天平12年にあたります。南門に加えて、東楼と西楼も建設されました。

南門の変遷Ⅰ-①~④期_ページ_2.jpg

Ⅰ-3期は、遷都の時期で、南門と東楼西楼は存在しますが、大極殿が恭仁京に移設されました。西暦では741~745、和暦では天平12年~天平17年に当たります。

南門の変遷Ⅰ-①~④期_ページ_3.jpg

Ⅰ-4期は、南門の解体期です。大極殿があった場所は、西宮に作り替えられました。西暦では745~753、和暦では天平17年~天平勝宝5年に当たります。「西宮南門」はあったようです(木簡)が、第一次大極殿院の南門と同じではない可能性が高そうです。

南門の変遷Ⅰ-①~④期_ページ_4.jpg

この後、Ⅱ期は、奈良時代後半に西宮が建てられていた時代になります。孝謙・称徳天皇はこの西宮に住んでいたかもしれません。

Ⅲ期は、平安時代以降になります。794年に平安京に遷都したため、平城宮跡が寂れていく時代になります。平安初期には平城天皇という天皇がいて、弟の嵯峨天皇に譲位して、平城太上天皇となった後に、一時的に(810年)平城宮付近に住んでいたことがあります。遷都から16年後ですが、その時には家臣の家に仮住まいして、邸を整えさせたというような記述もあるので、太上天皇に相応しい建物にするためには、整備が必要だったことも分かります。

以上で、第一次大極殿の変遷を簡単に辿りました。

平安時代中期以降は、田畑となってしまい、かつて宮があったということは、伝承される程度であったと考えられます。

国としては大和国の一部であり続けています。

中世には、超昇寺や超昇寺城が第一次大極殿院の北に建てられていました。平城宮があった時代は、松林苑という庭があったと推定されているところです。戦いの時代の名残として、中世の城跡もあるのですね。

江戸時代の地誌には、かつて宮があったという記述も見られるようになります。平城宮跡が発見された時代はこの頃からです。

1681年の『大和名所記』和州旧跡幽考に、平城宮跡を「方八町あり」とあり、平城宮跡が特別な土地として意識されていたことが分かります。

1852年に北浦定政という人物が作成した、『平城宮大内裏跡坪割之図』は今日の地形図に匹敵する精度を持っています。江戸時代末期には、宮の跡として認識されていたのです。

さて、時代は近代となります。

1896年12月11日は平城宮跡の保存運動に人生をかけた棚田嘉十郎が初めて、平城宮大極殿に立った日です。

ちょっとびっくりな人生なので、ご紹介しておきます。

棚田は、奈良公園の植木職でしたが、春日大社や大仏への参拝客に宮の跡はどこにあるのかをよく聞かれ、知らなかったために、都跡村の人に聞いて、この日に訪れたのですが、荒廃ぶりに涙したとか。

その後、自費で何度も上京し、東京の華族らに保存を働きかけたり、宮跡の古瓦を買い入れ、宮内省や宮家、ドイツのハンブルグ博物館にも寄贈し、そのために家財を使い果たし、大変な経済的困難に直面したといいます。

この間に平城宮の研究も進み、1899年関野貞氏により、「大黒の芝」「子安の芝」などと称される大きな土壇とその南方に点在する12堂朝堂の存在から、ここに平城宮があったという論文が奈良新聞に掲載され、地元の有志らが1901年に大極殿跡に木標を建てます。都跡村で「平城神宮建設会」が組織されますが、すぐに活動停止となり、代わって、1903年には棚田嘉十郎や溝辺文四郎によって、宮跡保存運動が始まります。1907年には関野が『平城京及大内裏考』を出版し、喜田貞吉との間で学術論争が繰り広げられてもいます。

さて、棚田は経済的困難にめげず、1910年の平城遷都1200年祭では中心的な役割を果たしたり、現在のJR奈良駅近くの「平城宮大極殿跡西乾是より二十丁」と書いた石標を建てたりしています。

しかし、長年の心労の結果、失明してしまいます。ようやく1913年に徳川頼倫を会長とする「奈良大極殿址保存会」が結成され、周辺の土地を買収する運動が始まりますが、棚田は土地の買収を巡って、ある宗教団体に騙され、身の潔白を証明するために、1921年に62歳で自刃します。

・・・衝撃的な最期ですね。失明したため、契約書の書換えに気がつかなかったのでしょうか。

棚田が自刃した刀は今も奈良文化財研究所に保管されています。

その翌年に、大極殿跡は国史跡に指定され、保存会は土地を国に寄付して解散します。この時は、近鉄が通っている場所は宮とは無関係と考えられていたのですが、その後の発掘で、線路も宮の一部であったことが判明しました。これは奈良文化財研究所の発掘の成果の一つですね。宮であったことが確実な範囲は徐々に広がってもいます。(現在は2061年を目標に近鉄の移設計画が提出されたところになります。)

一時的には地元の人々によって、史跡解除運動が起きた時期すらありましたが、今は開発を主な業務とする国土交通省も、歴史的な意義を理解して、大極門の復原工事に携わり、この後も大極殿院全体の復原工事を進めていく予定です。

完成する日が待ち遠しいですね。

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